平 均 律 ク ラ ヴ ィ ー ア 曲 集 教 本
カール・フィリップエマニュエル・バッハ 1744年
--- これは創作です ---



第24番前奏曲 ロ短調 の秘密

 

カール・フィリップエマニュエル・バッハによる、こだわりの分析
1744年

私の偉大なる父 ヨハン・セバスティアン・バッハから、この前奏曲、すなわち平均クラヴィーア曲集第24番前奏曲、について何か書くように、との指示が御座いました。皆様方が、お思いになっているほど、私は執着の強い性格を持ってはおりませんが、分析いたしましたところ、この前奏曲の美しいアリオーソすなわち旋律的な性格、あるいはカンタービレすなわち歌うような曲想のさりげない表情の裏に父 ヨハン・セバスティアンが塗りこめた秘密を私は見出したのです。実は、この前奏曲の前半の低音の動き、いわゆるウォーキング・ベースは、イ長調 Aメジャーの構成音で出来た短調的なドリアン旋法、あるいは、ドリアン・モードなのです。

 

ドリアン旋法 ドリアンモード とは
第1小節の低音部の動きは、「ロ 嬰ハ ニ ホ 嬰ヘ 嬰ト イ ロ あるいは B C# D E F# G# A B 」です。音の間隔は「基音 全音 半音 全音 全音 全音 半音 全音」です。この音の並びをドリアン旋法と呼びます。音の間隔をパターン的に見ると、 T-S-T-T-T-S-T となります。左右対称でしょう。
T
T-S-T-T-T-S-T
T
T
T
ちなみに、T は全音、S は半音です。ドリアンは、もとは、教会旋法のひとつで、美しい短調系の音になります。それは、3つ目の音が短3度になっているからでもあります。でも、このドリアン旋法は、ロ短調ではないので、ト音は嬰ト音でなくてはなりません。これからは、ドリアン旋法をドリアンモードと言うことにします。
-------
ハ長調の音階で、基音を二 あるいは D にすると、ニ・ドリアンモード あるいは Dドリアンモードが自然にできます。これは、皆さんが良く知っている形で、「二ホヘトイロハニ あるいは D E F G A B C D 」です。これは、ニ長調ともニ短調とも異なります。
このモードは、静かで落ち着いた状況のもとでの、「厳粛」、「優雅」そして「謙虚」を表すことが出来ます。「観想」あるいは「瞑想」のモードとも言われます。

 

アリストテレス政治学より
あるモードは穏健な落ち着いた気分を生み出す。それが、ドリアンモードの特別な効果である。男性ならドリアンの音楽は勇壮で雄雄しいと感じるだろう。我々は、極端を避け中庸を進めと説き、また、ドリアンは他のモードの中間ではあるのだが、若い人たちはドリアンの音楽を教えられてしかるべきであることは、明白である。

 

我が父 ヨハン・セバスティアン・バッハ平均律クラヴィーア曲集の最後の前奏曲においてドリアンを採用することによって、グレゴリオ聖歌を作り上げてきた教会旋法に敬意を表したかったのです。むしろ、平均律、特に第24番の前奏曲とフーガ、がグレゴリオ聖歌に対する、さらに教会に対する反逆ととられてしまうことを恐れていました。これまで西洋音楽が基礎を置いてきた旧来の教会旋法は次第にその力を弱めてきたとはいえ、父は、「汝はガリレオ・ガリレイのように晩年の1634年から1642年までの8年間フィレンツェ郊外に幽閉されたくはなかろう。」とでもいうような、教会の教えに平均律の理論が反しているとの内々の警告を受けていたようでした。カトリック教会はガリレオのような科学者を視界から遠ざけたかっただけだったので、その父でそれほど著名ではなかった音楽家のヴィンセント・ガリレイには眼もくれなかったのでしょう。しかし、カルヴァン派の方々は、音楽におけるルター派の華麗な典礼に対してかなり敵対的でだったので、それを思えば父の心配も理解できます。

父がケーテンの楽長の職にあったとき、主人は、カルヴァン派の血を引くアンハルト・ケーテンのレオポルド皇太子殿下でした。カルヴァン派創始者であるカルヴァンは「神のなさる審判は人間が何をしようとそれに影響されるものではない。例えば、教会で聖なる音楽を奏でたところで何ものでもない。それよりも、富を蓄え、かつ質素に暮らすことがよかろう。」という教義をお持ちでした。お若い皇太子殿下はもとから音楽が好きで理解があったので、ヨハン・セバスティアンを偉大な音楽家として尊敬されていて、父がケーテンで暮らしやすくなるよう、また仕事が成果を出せるよう心配りをしてくだいました。しかし、ケーテンでは教会の音楽は基本的にありませんでした。父の信仰の思想的背景は、ルター派にあります。ルターは「音楽は、人間が発明したものでなく、神からの贈り物」と考えた方です。教会内での装飾については厳しく規制を課しましたが、音楽だけは別でした。カルヴァンはこれに反して、「囚人でも見張るように音楽は監視されなければならない」と考える方でした。聖なる音楽芸術に何の関心も持っておられませんでした。とにもかくにも幸運なことに、皇太子殿下は最新の形式と流行に沿った陽気な器楽曲を愛され、楽しまれたのでした。父は心安く室内楽曲、ヴァイオリン協奏曲、ソナタ、鍵盤楽曲などをケーテンで作曲しました。しかし、ヨハン・セバスティアンには苦い経験がありました。1716年のこと、ケーテンに来る前のワイマールで当時の領主の命に従わなかったため、父は牢に入れられてしまったのです。忘れることの出来ない経験です。そこで、ケーテンでは良い環境で暮らしはするものの、カルヴァン派ルター派の教義の違いや、ご主人の気分の変化には常に注意を払っていました。ところが生活が激変します。父がレオポルド殿下のお供でケーテンを離れていた、1720年7月7日に私の母であるマリア・バルバラが36才で突然亡くなってしまいました。葬儀は父がケーテンに帰らないうちにカルヴァン派の教会で急遽執り行われ、埋葬されてしまったことを私は覚えています。しかし、当時たった6才でしたから、詳しいことはわかりませんでした。父は非常に悲しみ、落胆していましたが、私たち子供の面倒も見なくてはならないし、仕事も続けなければならなかったのです。

その後、父は多少落ち着きを取り戻し、皇太子殿下の誕生日と新年を祝うカンタータの作曲と演奏を命じられました。そのカンタータの演奏に当たって、ワイゼンフェルスの宮廷トランペット奏者のヴィルケ氏のアンナ・マグダレーナという娘が歌手の一人としてケーテンに来て歌いました。アンナ・マグダレーナの明るい性格とすばらしいソプラノは父の気持ちを引き付けました。1721年の12月にアンナ・マグダレーナ20才と36才の父は結婚して、また明るい家庭を築くこととなりました。ただ問題は、カルヴァン派教会での結婚式を皇太子殿下が段取りしてくださったことです。父としてはルター派教会での挙式が自分たちにふさわしいとは考えるものの、そうは皇太子殿下には言えませんから、幼い子供もいるので代わりになんとか自分の家でさせてはもらえないでしょうかとお願いするのが精一杯でした。それはともあれ、父は新しい奥さんが出来て幸せでした。ですから、お祝いでかなりの量のワインが出されましたし、結婚披露宴は盛大だったという記録が残っています。

ヨハネ 2:(創作です) ・・・そして、皆がワインを求めたとき、マリアは彼に言った。ワインはもうありません。・・・イエスは彼らに言った。水がめに水を入れよ。そして、皆は水がめのふちまでいっぱいに水を入れました。イエスは皆に言いました。さあそれを引き出して、宴席の仕切り役のところへもって行きなさい。そこで、花婿がその水の味を見てみたところ、ワインになっていました。

父が平均律クラヴィーア曲集を完成させたとき、父はこの作品に、等分律とか平均律とかの、特段変わったタイトルなどをつけようとはしませんでした。関係する歴史をあたってみましょう。

1530年にニコラス・コペルニクスが「天球の回転について」という偉大な著作を完成しました。しかし、出版については躊躇いがありました。というのは、著作の内容が新奇で馬鹿げているとして教会から非難されることを恐れていたのでした。事実、彼の理論は、ローマカトリック教会の教義に反するものだったのです。そのため、13年間も出版されずにいました。1543年に、コペルニクスの支援者でルター派神学者アンドレス・オシアンダーが、前書きにコメントを追加することで、出版に踏み切りました。そのコメントとして、「・・・ここには仮説があるが、それが真実である必要はない。ただ単に、観測に基づくデータに計算の結果がよく合致してれば、それで十分である。この理論はそうした計算手法を明らかにしているに過ぎない。」と書かれています。オシアンダーはコペルニクスを擁護しようとしたのでした。しかし、その結果は、プロテスタントの主流であるルター派カルヴァン派コペルニクスを「天文学を混乱させようとする大ばか者」といって非難したのでした。しまいには、1616年にローマカトリック教会コペルニクスの著作に「禁書」の烙印を押しました。

1609年にヨハネス・ケプラーは自身が発見した「太陽系の地球や他の惑星が太陽の周りを廻っている軌道は円あるいは楕円である。」という研究の成果を、「新天文学」という大胆な題を付して出版しました。しかし、ケプラーガリレオが投獄されるより以前の1630年に亡くなっていて、結果的に迫害を免れたのでした。ところで、ケプラーは1619年に「ケプラーの第3法則」を含む別の著作も表しています。その表題は「世界の調和(ハルモニア・ムンディ)」でした。そこで、ケプラーは惑星の運動と音楽の音階や音の協和の関連について考察しているのです。特に、音階の整数比と惑星の速度の合致が見事である、と考えたのです。

1687年に、アイザック・ニュートンは「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」を出版しました。万有引力の法則を明らかにした著作です。ニュートンは宗教的圧力には悩まされませんでした。ニュートンの時代の英国では、英国国教会の教えには従わなくてもよいという国王からの特赦があれば、自由に学術研究をすることができ、ニュートンもこの特赦を受けていたからです。音楽については、「光学」という著書のなかで、光のプリズムによる」分光と音階や音の調和との関係を論じています。

ニュートンは太陽の光のスペクトルを7色に区分してその境界に区分線をつけました。そして、音楽との関係を発見したと考えたのです。それはすばらしくぴったりとドリアンモードを表していました。そして、驚くべきことに、ニュートンは音楽の調和の基礎が整数比で表せると信じていたのです。

 

ヨハン・セバスティアン・バッハは、控えめに「程よく調律された」とか、「学習に熱心な若い音楽家のため、また熟練した演奏者の楽しみのため」と表紙に書き込んでいますが、その反面、その曲集の最後の曲としてまたこの前奏曲に続くフーガとして、これまで誰も耳にしたことのないような半音階旋法を創造するという挑戦を目立たないようにしてしてしまっていたのです。
とにかく低姿勢でかつ注意を払っていないと、カルバン派の方々は「異端」の音楽理論で若い人々を虚栄と堕落に陥れる可能性があるとして、我が父を告発しかねなかったのです。アンナ・マグダレーナですら、この平均律の第1番の前奏曲ハ長調に可能な3種の「減7の和音」の存在に気がついたのです。この「減7の和音」の導入はこれまでの「教会旋法」を排斥して、父が音楽の世界を支配しようとする企みがある、などといわれるかもしれませんでした。どなたかが第24番のフーガのこの主題があまりにも特殊で、場合によっては反カルヴァン主義ととられかねないことに気がついて、父に助言したのかもしれません。とにかく、父は慎重に振舞っていました。

次の年、1723年にヨハン・セバスティアンはトーマス教会の音楽監督カントール)に応募する試験を受けました。試験に先立って、父はルター派のThe Book of Concordへの文書での同意を求められました。採用試験では神学一般とThe Book of Concordに示されるルター派の教義に関する問いに答えることが必要でした。すなわち、ルター派以外の信仰を否定しなくてはならなかったのです。このため、ケーテンにいる間に、御主人の不興をかったり、カルバン派の人たちから誹謗中傷を受けたりして、また、投獄されたりすることがないよう気をつけねばなりませんでした。父は家族ともども出来るだけ早い時期にまた平穏にケーテンを離れる決心をすでにしていたのです。

 


前奏曲第24番の分析
次の楽譜は3つの半音と1オクターブ上に移調したものです。
すなわちロをニに上げてさらにオクターブ上げています。
それで、シャープもフラットも調性記号としてはついていません。

ご覧のとおり、父は主にドリアン・モードを使い
それを支える和声を組み立てたのです。


~~~第1小節はドリアン・モードそのものです。
~~~もとの楽譜でいえば、ロ音・ドリアン・モード B-Dorian です。


~~~複雑にみえますが、ドリアン・モードの下降形です。ハ音 C はシャープを、ロ音 B はフラットを伴うことがあります。


~~~嬰ハ( C sharpまたは D flat )を伴うナポリ擬似終止形は、第3小節にあって、第4小節でドリアン・モードを再開するためのあいまいな休止です。


~~~第6小節から8小節までは、ミクソリディアン・モードです。ハ長調が基盤の場合、ミクソリディアン・スケールはト音 G の上に出来ます。すなわち、ト、イ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト あるいは、"G, A, B, C, D, E, F, G" です。音の間隔は、全音全音、半音、全音全音、半音、全音 あるいは、 T-T-S-T-T-S-T です。これは、長調に似ていますが、第7音が半音低くなっているところが特徴です。


~~~嬰トを伴うナポリ擬似終止です。


~~~第13小節と第14小節は、ドリアン・モードで出来ています。ここで、音の間隔を見ると、ドリアン・モード に特徴的な、全音、半音、全音全音全音、半音、全音 すなわち  T-S-T-T-T-S-T になっています。したがって、これは、ホ音・ドリアン・モード E-Dorian といえるでしょう。


~~~第11小節と同じように、嬰ハ伴うナポリ擬似終止です。


~~~これは最後の2小節をまとめたものです。ドリアン・モードの下降形がみられます。

 

 


この前奏曲は、我が父が、それなりの心配もあって、教会に対する敬意を示そうとしたものです。ですから、教会旋法にこだわっています。私が思いますに。始め、父は ドリアン・モード の音のつながりを高音部の旋律として、低音部にそれを支える和音を展開して、和声と教会旋法の融合を考えたのでしょう。でも、終いに、上下を逆にしてみたら、驚くほど美しい曲になってしまったのです。

そこで、この前奏曲の後半の第2部では、半音階的手法を加味して和声と教会旋法が離れることの出来ない状態を作り出しました。そして、最後のフーガへの導入部としたのです。

 

最後までお付き合いくださりありがとう御座いました。
カール・フィリップ・エマニエル・バッハ